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映画や出版、ラジオに関連した仕事の他に、大学でフランス語と映画の講師を勤めている。現在実行委員長として、大阪ヨーロッパ映画祭の準備を進めている。
<プロフィール>
リモージュ(フランス)生まれ。少年時代から多才で様々な分野で活躍した。その例としてコーラス(14歳のときローマ法皇サン・ピエールの新年を祝うミサの聖歌隊の一員に選ばれた)、陸上競技(フランス大会団体戦において銅メダル、銀メダル、個人400メートルジュニア戦17位など15〜18歳の5大会で20以上のタイトルをとった)、洞窟調査(20歳足らずでフランスとスペインにまたがるピレネー山脈に存在する洞窟、リムーザン地方に記録されている炭坑を全て探検)、登山(13歳半でスペインで2番目に高いペルディド山の南崖を登り、16歳で北崖を登る。18歳からフランスで有名な登山家、ドミニクジュリアンとフランシス・トマに同行する。22歳で登山中、同行したパートナーが事故に遭い、そのショックで登山からは一時離れる)を挙げることができる。
7歳から映画に情熱を抱いた同氏は、12歳のとき父親に頼みこんでS8mmカメラを買ってもらうが当時は大変貴重なものだったため、触ることを禁じられたという。14歳になってそのカメラで自主映画を作成。17歳になると大好きな山での撮影を行うため自分で16mmカメラを購入した。また後に公認されるシネマクラブを設立。公の団体の代表としては最も若い代表であった。18歳では4年前にローマで知り合った音楽活動研究グループの代表によってメンバーに選ばれた。高校までリモージュで学んだ後、パリのソルボンヌ・ヌーベル大学(パリ第3大学)で現代文学と映画、演劇美術を学ぶ。大学1年目には長編映画の製作とペルー山脈へ探検旅行を目指したが、実父の死が理由であきらめる。21歳のとき、開催された映画祭「80年代フランス映画の側面,パリ」に委員として参加。この映画祭は、当時商業目的であると非難されたカンヌ映画祭に対抗したもので、1回限りの映画祭ではあったが、その影響は大きかった。ソルボンヌ大学の教授で映画監督のルネ・ジルソンと親しくなり、結局完成しなかったが2本の長編作品に助監督として参加。またピエル・パオロ・パゾリーニの暗殺を題材にした短編映画を同じく助監督として完成させた。この短編映画で実物の死体解剖書を目にしたことをきっかけに、実父の死を題材に脚本を書く。
大学卒業後、非行少年の教育を担当していた同氏は、当時非行少年を題材に作品を作っていたジェラール・ブラン監督と、非行少年との面会を実現させ話題となった。その手腕が文化相の目に止まり、リセの映画文化教師となる。-折しも1984年はリセで芸術科目の履修が義務化された年であり、芸術科目の教師第1号の一人となり、24歳から26歳まで務めた。この頃から教師という仕事の他に、映画と演劇の仕事を始める。その一つにマイケル・ロンスダール演出の「Hiroshima mon amour」がある。
様々な国際映画祭の委員会に参加し、26歳のとき「シネマ・プリュリエル協会」の実行委員長に就任。1986年カンヌ国際映画祭に招待された同氏は、演劇の仕事を辞める決意をしていたが、マイケル・ロンスダールに韓国・日本ツアーへの参加を依頼され、承諾し初来日に至った。
また、数々の映画やテレビ番組の製作にも監督、脚本、助監督、編集、撮影監督、エグゼクティブプロデューサー、技術コンサルタントとして関わっている。自作の映画としては、ビデオ/8mm/16mm/35mmの短編映画とドキュメンタリーを監督。特筆すべき作品としては、ラインプロデューサーとして製作したフランス外務省発注の映像メディアマガジン、「今日、フランスで」や監督・プロデューサーとして製作し、1987年カンヌ国際映画祭に出品された「夏の前の風景」がある。
日本には、在日フランス大使館の依頼でアリアンスフランセーズ大阪の文化部長、在日本アリアンスフランセーズの文化活動担当として来日し、1995年まで勤務した。来日してすぐ、フランス外務省と讀賣テレビ共催のフランス映画祭にて、共同ディレクターを務める。映画に携わる一方、茂山あきら(狂言)の舞台の照明デザインを手がけるなど、舞台の仕事にも関わる。28歳のとき実弟の死と、登山で2度目の事故に遭い、登山からは永遠に離れ、また自身の映画製作までも中断してしまう。
同氏はこれまで多くの企業や公共機関の支援を受け、日本全国で200を超えるイベントを企画、製作してきた。その分野は幅広く、絵画、写真、音楽、演劇、映画、哲学文学にまで至る。大阪での活動としては5年の歳月をかけてオフシアター「フランソワ・トリュフォー」、並びに近代芸術に貢献するためのギャラリー「エスパス(空間)」を設立した。また関西ドイツ文化センターと協力し、大阪府の助成金による日欧文化交流プログラム「ARTEX」を発案した。1994年から毎年大阪ヨーロッパ映画祭を実行委員長ならびにエグゼクティブプロデューサーとして開催している。
1997年になってフランス人監督パトリス・ルコントやオランダ人監督ケス・ヒンに励まされ自身の映画製作再開を決意、記念すべき再開第1作目が「フォスフェーヌ」である。現在最新短編映画「カフェノワール」の編集を終え、短編映画「パラダイス・バイ・ナイト」の撮影に向け準備中である。同時に長編2作品を執筆しており、その撮影に向けスポンサーを探している。
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